第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「その…洗ってくれて、ありがとう。ね」
「なんの。寧ろ俺だけの特権だ」
そろりと視線を上げて、告げるべき礼を口にする。
返す杏寿郎は、言葉通りの特権だと嬉しく笑う。
汗と精と愛液で塗れた体を、ゆるやかな湯で綺麗に流された。
ふわふわと温かく浮くような心地に蛍が意識を浮上させれば、優しい笑顔に迎えられた。
個室露天風呂をもう一度楽しみたい。
蛍のその望みを杏寿郎は忘れていなかった。
二人が岩風呂に身を浸したのは、朝日の予兆もまだ先の頃合い。
屋根のない露天風呂は、昼間入った檜の風呂より開放感がある。
「はぁ…気持ちいいなぁ…星空もこんなに綺麗」
「そうだな」
岩風呂の、座る段差の上に腰を落ち着かせる。
立てた膝を抱いて夜空を見上げる蛍の肌は、上半身と膝は湯船に浸からず惜しみなく晒されている。
ちゃぷりと透明な湯船を揺らし、水滴が滴る絹糸のような髪に陶器のような肌。
しっとりと上品な色香を纏いながら、無防備さも兼ね備えた姿は、この場だからこそ見られるものだ。
つい目が止まるのはそればかりで、杏寿郎も深く頷いた。
「本当に綺麗だ」
何度口にしても言い飽きない。
感嘆の吐息を交えて告げれば、ぱちりと視線を合わせた蛍の頬がじんわりと染まった。
「…夜空の話だよね?」
「蛍の好きに解釈してくれたらいい」
にっこりと爽やかな笑顔の今の杏寿郎には、どう返しても己の羞恥が高まってしまうだけの結果が出そうな気もする。
何か言いたげに開いた口を閉じると、蛍はくるりと横へ向き直った。
「うん。本当に夜空が綺麗」
一先ずその返しは、夜空の話とすることにした。