第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「き、杏寿郎?」
「…君は…」
「な…何」
何故そうも自分が欲しいと思う以上のものを、するりと飛び越え与えてくれるのか。
何度思ったことだろう。
本当に、君には適わないと。
「…杏寿郎…」
胸に突っ伏して、もごもごとくぐもる声は覇気がない。
しかし情けない声とは違う。
完敗したような、降参したような。
そんな杏寿郎の姿に、最初こそ驚いていた蛍も無意識に手を伸ばしていた。
そっと、俯く頭を撫でるように触れる──
「っなら!」
「ひゃっ」
かと思った間際。
がばりと顔を上げた杏寿郎に、びくんと反射的に体は強張った。
「な、何?」
「なら俺の…っ」
「う…うん…?」
「ッ俺のこの想」
からり、と軽やかに襖が開く。
「おや」
意気込んだ杏寿郎の言葉も、驚きながらも耳を傾けようとした蛍の姿勢も、全てを停止させて。
「これはこれは…」
料理一式を運びにやってきていた藤の家の老婆が、一人。
「お邪魔しましたかね」
小さな曲がった背中をより曲げて。
にこりと頸を傾げて笑う姿に、一瞬停止していた杏寿郎と蛍は途端に声にならない声を上げた。
(ひゃあぁああぁ見られた!? 見られたッ!!!)
「す、すまない御尊老殿! 湯浴み中だったもので!」
老婆が開けた襖から、脱衣所の戸口前までは距離がある。
加えて落ち込むように屈んでいた杏寿郎の裸は、タオルに包まれた蛍を抱いていたこともあって老婆の目に間一髪晒されてはいなかった。
それでも裸でいたことに変わりはないし、半裸状態の蛍を抱いていたことにも変わりはない。
咄嗟に脱衣所へと身を隠しながら杏寿郎が声を張り上げれば、老婆は気にした様子もなくにこにこと笑っていた。
「いえいえ。こちらこそ無断でお食事をお持ちしてしまいましたが故。お二人の休息をお邪魔してしまい申し訳ありませんでした」
互いに裸で、互いに脱衣所の前に身を置き、互いに肌を重ねていたのだ。
「ですが仲睦まじきことはとても良いこと」
杏寿郎達とは温度差のあるほのぼのとした声で告げられ、即座に二人は理解した。
これ以上の言い訳は、何も通じまいと。