第28章 桜の咲く頃 四幕(十二歳)
(駄目だ…きっと二回分使わなきゃ)
すっと息を吸い、信玄の胸に顔を寄せ
(まずは、この靄が収まるように…)
一番黒い部分へ口づけを落とす
すると、黒い靄は徐々に吸い込まれるようにその大きさを変えていき
少し待てば、手のひら程の大きさになった
だが、色は濃いままだ
(もう一度)
もう一度、そこへ口づけをしようとした時だ
「…湖」
苦しそうな信玄の声がしたのだ
「っ、ととさま」
がばりと身を起こして信玄を見れば、相変わらず苦しそうではあるが
うっすら目を開けている
「あぁ…随分いい…」
額に汗を浮かべるのに、信玄は口元を緩めて微笑むのだ
「…嘘つき。まだ苦しいのに…わかっちゃうんだから、嘘つかないで」
「…ははっ、嘘つきか・・っ」
ぐっと、咳き込み始めた信玄はその身を横向きに変えた
「ほら…ととさま、嘘つき」
湖は、その背を撫でる
「そうだなー。嘘つきかもなぁ…だが、随分ましになったよ」
ははっと、苦しそうな笑いをするのだ
確かに先程までの上半身を覆うような靄はない
随分まし
それは嘘ではないのだろう
「ととさま…好きだよ」
「なんだ?湖、愛の告白か?」
「真面目に答えてね…私を信じてくれる?」
また咳が出る
信玄の靄は、黒いままゆらゆらと揺れるように動いていた
「俺が、娘を信じないわけないだろ」
はぁーっと、長い息を吐くと
信玄は再び仰向けになり、湖と目を合わせた
その瞳には優しさを帯びている
「…私は、武田信玄の娘……絶対に、私の手を離さないでね。約束して」
「娘のご要望であれば…っ、く、ごほっ、ごほっ」
苦しそうに目を閉じるの信玄を見て
湖は覚悟を決め、同じように目を閉じた
(桜さまは「内緒にしろ。隠せ」って、言った。疑われれば効力が薄くなると…でも、あれは、私が利用されないようにそう言ってくれたんだと思う…だって、ととさまは途中から気付いていたもの。私がやってるって…それでも、お守はちゃんと効いていたから。大丈夫、ととさまは…信玄さまは私をそんな風には扱わない)
「湖…?」
薄く開く瞳で湖を見れば、彼女は信玄の胸元に口づけを落とした
(お願い…桜さま、お願い。ととさまを助けてあげて)