第35章 過去編:名前のない怪物
そう言えば、既に先を行く泉を追って佐々山は走り出す。
慎也はその後姿を、呆然と見送るしか出来なかった。
扇島の裏路地を走りながら、佐々山は横の泉を見る。
「良いのか?狡噛を置いて来て。」
「慎也はこの件に巻き込みたくないの。」
「俺は?」
「佐々山くんは共犯だって言ったでしょ?」
泉はニッと笑って言う。その言い方に佐々山も笑えば、ふと視線が一点に止まる。
「おい、日向チャン!アレ――!」
佐々山が指差した方を見れば、艶やかな銀髪が薄暗い中でも周囲の光を集め輝いている。
「マキシマ――!」
佐々山の声に気付いたのか、一瞬だけ槙島がこちらを見た気がした。
泉の心臓がうるさく跳ねる。記憶はまだ完全には戻っていない。けれどももう、『それ』はきっと揺るがない事実だと思った。
「――お兄ちゃん。」
「は?!」
佐々山が思わず声を上げるが、まるで泉は吸い寄せられるかのように槙島を追って走り始めた。
「あ、おい!日向チャン!くそっ!」
一瞬の遅れを取った佐々山は、慌てて後ろを追って行く。
けれどもこの複雑な地形の島では一瞬の遅れが、大きな痛手になるのだ。
佐々山がくぼみに足を取られてバランスを崩した。その間にも泉は槙島を追ってどんどんと進んで行き、佐々山は遂に泉の姿を見失った。
「マジかよ!チクショウ!日向チャンになんかあったら狡噛に殺されるぞ――!」
あの男ならば冗談抜きでやるだろう。真面目な男ほど、恋愛には盲目的になるのだから。
怒りに任せて壁を蹴り上げたが、硬質な感触が足先をしびれさせただけだった。
「――やぁ。また会えたね、泉。」
槙島は自分を追って来た泉に気付いていた。扇島の最深部まで来れば、まるで待ち侘びた再会だと言わんばかりに両手を広げて言う。
「――貴方は私の、お兄ちゃん?」
フラフラとまるで何か催眠に掛かったかのように泉はおぼつかない足取りで、槙島の元へと向かう。やがて自分の前に来た泉を、槙島は愛おしそうに抱き締めた。
「嬉しいよ。こうして再び君をこの腕に抱けるなんて。」
「どうして――。」
「どうして記憶を奪ったのかって?――君を悪い夢から救ってあげたかったんだよ。」