第1章 ありがとう、さようなら、ごめんなさい
「比丘尼、名は?」
いきなり投げかけられた言葉に一瞬理解が追いつかず、私は言葉に詰まった。
もう気が遠くなるほどの時間、『比丘尼』を名乗り、そう呼ばれてきたから仕方がない。
名を聞かれることなど、もうずっとない。
「お前にも親につけてもらった名くらいあるだろう?」
反応のない私に再び名を聞いてくる彼の瞳の中には出会った時にはなかった光が宿っていた。
「そんなの、もう覚えていません」
嘘をついた。
だって彼はかつて番号で呼ばれ、今は九相図に当てただけの名前で呼ばれていたから。
そんな彼の前で、自分だけ親からもらった名を未だ大切に胸にしまっているだなんて申し訳ないように感じたから。
けれども、彼はそんな私の考えを見通したようにフッと微かに笑った。
「嘘をつかなくてもいい。親からもらった大切な名だ、堂々と名乗ればいい」
そして、彼は私の瞳をまっすぐ見つめて、「それに俺がお前を名前で呼びたいんだ」と言った。
そんな優しい表情で言われれば、答えずにいられる訳が無い。
「…名前は久遠」
「久遠…良い名だな」
あぁ、名前で呼ばれるのなんて何十年、何百年ぶりだろう。
あまりの懐かしさに鼻の奥がツンとなり、私の意思とは関係なく涙が零れた。
その涙は止まらなくて、拭っても拭ってもどんどん溢れた。
「ごめんなさい、なんだか、止まらなくて」
「いい。お前も…久遠も辛かっただろう。今は心が許すまで泣くといい」
そうして彼は私の頭に優しく手をかけるとそのまま彼の肩に顔を埋めさせてくれた。
どうして彼はこんなに優しいのだろう。
彼が愛して止まない弟でもなければ、彼を産んだ母親でもない。
彼が産み堕とされるきっかけを作ってしまった私に対して。
どうしてこんなにも優しいのだろう。
私が彼らを想い続けた150年、彼らは産まれ堕ちたその時のままだと思い続けていた。
でも彼は、彼らは150年をしっかり生きていた。
支え合いながら、慰め合いながら、励まし合いながら。
ついこの前身体を手に入れたというのに、産まれ堕ちたままの赤子ではない。
私と同じ150年を生きてきたのだ。
こんなにも立派に生きてきたのだ。
それがなんだかとても嬉しくて、愛おしかった。