第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「杏寿郎…あの、」
「ん?」
「…えっと…いや、あの」
「はは。なんだ、どうした?」
「…なんでもない…」
きし、と畳を踏み鳴らす。
寝室へと入れば既に布団は一組敷かれていた後だった。
元々は炎柱の為に用意された部屋。
布団が二つ並んで敷いてあることの方が不自然に映る。
その一組が今は都合がよかった。
照れが混じるような、焦りも混じるような。なんとも形容し難い表情を見せる蛍の体を、ゆっくりと布団の上へと下ろす。
「それはなんでもない顔とは違うな」
寝かせるように座らせた蛍の上に、ゆっくりと覆い被さる。
部屋には陽光が入り込まないようにしておくようにと伝えていた為に、杏寿郎が影を作れば真昼というのに蛍の表情も読み取り難いものとなった。
それでも間近にあれば見える。
ぴくんと僅かに顎を退いて示す蛍の感情は。
「いつも以上に顔が熱い。湯当たりしたか?」
「…してない」
「ならばこれは、緊張のようだ」
包んでいたタオルを脇に押しやれば、一糸纏わぬ姿の蛍が恥じらうように横を向く。
その額の前髪を掻き上げて口付けを一つ。目尻に一つ。頬に一つ。
触れるだけの優しい愛撫を重ねながら穏やかに告げれば、蛍の眉尻が下がりこちらを向いた。
敵わない、と白旗を上げた顔だ。
「だって…まだ、こんな姿だし…」
「蛍は男の自分が嫌いか?」
「嫌いじゃ、ないけど…なんだかんだ任務でも都合の良いことは、多かったし」
「隠に扮した男性の姿も様になっていたが、列車好きな少年は整備士の者達に大人気だったな。あれは少し妬けた」
「列車好きって設定最初に考えたのは杏寿郎だけど…んっ」
「そうだな。列車好きで、俺を慕ってくれている無垢な少年だった」
唇への口付けで一呼吸置くと、頬に手を添えて視線を合わせる。
所作も声も穏やかでありながら、そこにはどこか有無を言わさない空気があった。
「そして今だけのこの蛍の姿を目にできるのは俺だけだ。他には許してくれるなよ」
「杏──」
返事を待たずに再び重なり合う唇。
今度は深く、蛍の言葉一つ漏らさないようにと舌で繋がり合った。