第9章 澱の沈む夜に
使用人用の食堂で簡単な夕食を済ませた後、ニナは再び執務室で帳簿へ向き合っていた。
年度ごとに並ぶ日付。繰り返される品目。金額と単位。
最初は記号のようにしか見えなかった数字も、最近では少しずつ意味や流れが分かるようになってきた。
記帳のために走らせるペン先も、以前より滑らかになっている。
「ふぅ……。屋敷の管理って大変だな」
肩の重さをじんわり感じ、ニナは立ち上がって腕を伸ばす。
窓を開ければ夜気が流れ込み火照った頭を冷やしていく。
冷たい空気を吸い込んで吐き出すと、ニナは再びデスクに向かい始める。
その時だった。
風に乗って、遠くからピアノの音が流れてくる。
(……イルミさん。……帰ってきたの?)
ペンを持つニナの手が止まり思わず視線が窓の外へ向く。
すぐに帳簿に視線を戻し記帳を続けようとしたが危うく別の行へ数字を書きかけ、ニナは慌ててペンを止めた。
間違えても修正はできるだろう。
だが、乱れた帳簿をツボネに見られるのは嫌だった。
ニナは小さく息を吐き立ち上がると、気を散らす音を断つように窓を閉める。
それでも、一度耳に入ってしまった音色は消えなかった。窓を閉めても尚、小さな音が却って心臓を抉るように響いてくる。
ニナの鼓動が早まった。
(……やっぱり、イルミさんの音だ)
先程ツボネと確認したはずのワインの銘柄と本数が、急に曖昧になる。
どちらを東の貯蔵棚へ移したのか。何年物を何本残していたのか。
頭の中で数字が上手く結びつかない。
ニナはとうとうペンを置き、帳簿を閉じた。
(もう一度、ワイン庫を見に行こう)
自分に言い聞かせるようにそう呟き、ニナは立ち上がった。