第7章 序曲(オーヴァチュア)
事務方を交えエレオノーラとの契約は、滞りなく進んだ。
報酬や場所、次々と必要な取り決めが簡潔に詰められ、最後に短い覚え書きが交わされる。
「それでは、初回のレッスンの日程を……」
執事の問いに、エレオノーラが一歩前に出た。
「明日、お越しくださいませ」
エレオノーラの言い方はお願いというより提示だった。
イルミはパチリと目を瞬かせる。
戦争好きの大王の血を引く令嬢か。……なるほど、噂に違わぬ気質だ。
「宿は手配させます。どうぞ、この街にお留まりを」
すでに手配は動いているのだろう。選択肢など、最初から存在しない。
「……いいでしょう。では明日」
執事が深く一礼してから後ろへ下がる。覚え書きを内ポケットに収め、イルミは腰を上げかけた。
「まだ宵の席が続いております。少し遊んでいかれませんか」
柔らかな誘いに、イルミは首を振る。
「夜更かしは声に良くないよ。早く休むといい、エレオノーラ」
名を呼ばれたエレオノーラの瞳が微かに揺れる。だがすぐに、完璧な微笑みを浮かべ直した。
宮廷から程近い宿「ル・イヴー・ダルジャン」。
格式ある名とは裏腹に、ロビーのシャンデリアは灯りを落とされ、壁際の燭台にも半分ほどしか火が入っていない。
上等な絨毯はところどころ擦り切れている。平常なら飾られているであろう生花はなく、代わりに乾いたハーブの束がささやかに香りを放っている。
長引く戦争は、じわじわとこの街の喉を締め上げているようだった。
イルミは荷物とジャケットをクロークに預ける。
「こちらになります」
案内に立った若い使用人は、丁寧な所作の奥に疲れを滲ませていた。
制服の袖口はほつれ、胸の紋章も色褪せている。
イルミは無言で鍵を受け取り、小さく頷く。
エレベーターは故障中らしく、使用人に申し訳なさそうに階段へ案内される。
部屋に入るとイルミはソファに腰掛け、テーブルの下から新聞を取り出す。
『ルドルフ大王率いるグランツェ王国、大勝利目前!!
エレオノーラ殿下、祝賀オペラ主演決定』
イルミは記事を一瞥し、紙面を閉じた、
勝敗にも名声にも、関心は向かない。
意識はただ一つ——思うままに音が鳴るか、それだけだ。