第1章 霧の屋敷の黒い旋律
ニナは案内に従い、廊下を進んだ。
遠くから、かすかにピアノの音が聞こえている。夜の静寂を震わせるその音は、二階の奥まった一室から流れ出していた。
その部屋の前で、使用人が足を止めた。
ニナもまた立ち止まる。
白い薄手のドレスの裾を摘み、僅かに息を整えた。
——そのとき、
ピアノの音が、ふと途切れた。
最後の和音が、静かに余韻を残して消えていく。
ニナは深く息を吸い、震える指で扉をノックした。
トン……トン。
「……ニナです。夜分に申し訳ありません」
「入って」
ニナはドアをゆっくり押し開けた。
出窓のレースのカーテンが霧に濡れ重く垂れ下がり、燭台の炎が長く影を伸ばしている。
フォルテピアノの前に座る青年は、袖に金の刺繍の施された黒い上着を羽織り、白いシャツの襟を少し緩めていた。
白く長い指がまだ鍵盤の上に置かれ、こちらを振り返る瞳は、深い闇を湛えている。
「……ニナか」
声は低く、静かに部屋に響いた。
ニナは慌てて膝を折り、頭を下げた。
「イルミ様。本日より……お屋敷にお迎えいただきました、ニナです。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「……ああ」
彼はぎこちない挨拶を最後まで聞かず、視線を鍵盤に戻した。
——はずだった。
指先が、ほんのわずかに止まる。
「勘違いするなよ。ここは慈善じゃない」
「……」
「無駄なものは置かない」
ニナは一瞬だけ息を詰めた。
それでも、深く頭を下げる。
「……承知いたしました」
「用がないなら下がって」
もう一度深く頭を下げ、ニナは部屋を出る。
扉を閉めた瞬間、ニナの背中に低く重いピアノの音が落ちてきた。