第2章 主人として
「…………。」
「…………………。」
互いに、それ以上紡ぐことはなかった。
ふた組の足音と、生者の証、それぞれの息遣いだけが廊下を支配している。
(主様………、)
物想いに沈む瞳は、澄んだ色彩ながらどこか淀んでいた。
「主様、ここが食堂です」
彼ととともに足を踏み入れると、焼きたてのパンとスパイスの匂いが鼻腔を擽った。
「おっ! おはよう、主様!」
彼女の姿を見止めた料理の格好をしたロノが、にっと笑みを浮かべた。
黒い立襟の胸元に金の釦で留められたタイと葡萄色のリボンが重ねあわされた白のコック服。
両の胸元に金の釦が縦に五つ並び、折り返した七分丈の袖口は黒。
腰には裾に黒のフリルが施された白と葡萄色のボーダー模様のエプロンを付けている。
そっと、丁寧な所作でサラダボウルを置くと、こちらへと歩み寄ってくる。
「おはよう」
笑いかけると、ほっとしたように和む、彼の瞳。
「? ロノ?」
「良かった……。昨日はぐったりしてたから心配したぜ」
そう言って、こちらへと手を伸ばしてくる。
ぽん、ぽん、と頭に軽く手を打ち付けると、彼女はすこしばかり瞳をゆらめかせた。
遠いとおい、かなたの記憶を追っているような、儚く哀しげな瞳。
(主様……?)
そのひかりに、ベリアンの胸がざらつく。
昨夜彼女がみせた表情が、思考の奥で甦り、みずからの内で混沌が淀みはじめた。
「ロノくん、主様に失礼ですよ」
その感覚を散らすように、やんわりと咎めると、
「すっ、すいませんベリアンさん」と慌てて手を引っ込める。
「主様、すみませんでした」
やや急いた様子で謝った時には、その両目から切なげなひかりは消えていた。
「ううん、気にしないで」
そっと微笑む彼女。その瞳は常の彼女に戻っていて、先刻の影さえ消し去っていた。
「主様、………こちらへ」
フルーレの先導で、ダイニングテーブルへと近づく静かな靴の音。
その表情は柔く穏やかで、長い睫に縁取られた紺碧色の瞳は温かさをはらんでいた。