第10章 凍土の胎動
静代の切実な訴えに、実田は静かに目を閉じた。
彼の脳裏には、以前、菖蒲が演舞中に思わぬトラブルに見舞われた際、人外の力を持った一人の男に間一髪で助けられた出来事が鮮明に蘇っていた。
その時、実田は感謝の印として、日本に最近入ってきたばかりで珍しかった蓄音機をツテをたどって送ったのだ。
男の正体を知ったのはその際だった。
以来各所に菖蒲に対して危害を加えていないか確認したところ、良い待遇でいつもお堂を訪問すれば皆に歓迎されていたと聞き、以来、極めて良好な交流を持っていた。
「静代殿。正直に申しましょう。流派の家元と正面衝突することになれば、人並みの力では到底無理だ。鶴之丞殿の狂気は、法も常識も通じない。むしろ、刺激すれば菖蒲さんの命が危なくなる」
実田は、自らの良心と、現実に必要な力の差を秤にかけた。菖蒲を助けるには、もはや社会の理の外側にいる力が必要なのだ。
「では、どうすれば…」
「私が知っている者の中で、この問題を根こそぎ解決し、奥方を安全な場所へ連れ出せる人物は一人のみ。彼は、人の道や社会の理の外にいる人物ですが、人の情けを解する部分もある。そして何より、鶴之丞殿が最も恐れているのではないかと…」
実田は静代から一歩下がり、覚悟を決めた面持ちで念を押す。
「人の形をした人ならざる者だと噂がある者です。
それに、以前鶴之丞様の御父上であらされる先々代を襲った人物であると思われます」
「どういうこと?その方に頼んで本当に菖蒲は大丈夫なの?」
”人ならざる者”と聞いては、静代は背中にゾッとするものを感じた。
何故ならば、舞巫女という職業は夜であり、鬼に食われたという話を昔から聞いていた。
つまりは、実田のいう”人ならざる者”と聞けば真っ先に思い浮かぶのが鬼である。
そして、今までの実田の話を聞いて、静代は20年以上も前の話を思い出していた。
先々代が妾を追いかけて消息を絶ち、以後、無惨な姿で発見され、近くに幼い鶴之丞が発見されたという出来事。
しかしその話は、闇に葬られたかように誰もその詳細を知ろうとする者はおらず、静代も今の今になるまで忘れていた。
その妾という人物は静代にとって知らぬ人物ではないことでありながら…。