第15章 【信玄編・前編】
信玄は、竜昌のその頬が、淡い桃色から真紅に染まるのを見て、胸の奥がちりりとわずかに痛んだが、それを表には出すことはなかった。
「ほら、思った通り。よく似合う」
竜昌はどうしていいかわからず、壁に背をつけたまま立ち尽くしていた。
信玄の甘い雰囲気に呑まれないように、必死に息を詰めていたが、吸い込まれるようなその瞳からは、どうしても目が離すことができなかった。
信玄は、静かに竜昌の手を取ると、その手にかんざしを握らせた。
「受け取ってくれると、嬉しいな」
返事をする代わりに、竜昌はかんざしをそっと手で握った。さっきまで信玄の手の中にあったかんざしには、彼の体温が移っていた。
『熱い…』
信玄はそれを見届けると、さっと立ち上がった。
「では、また」
横顔に笑みを残し、信玄は片手をあげて去っていった。
路地裏へ竜昌を引きこんだ時の情熱的な動きとはうってかわって、信玄は拍子抜けするほどあっさりと姿を消した。
「あ…」
人ごみにまぎれて見えなくなる信玄の広い背中を目で追いながらも竜昌はその後を追うことができなかった。心臓が痛いほど暴れ、膝が震えていたからだった。
─── ◇ ─── ◇ ───
「信玄様、どうかしましたか?」
ここは安土城下の片隅にある、信玄たちの隠れ家。
囲炉裏の熾火を神妙な顔で見つめていた信玄に、佐助が声をかけた。
「ん?いや…」
呼びかけに応えて我に返った信玄は、またいつものように、男の佐助ですら目眩がしそうな色気をまとった笑顔に戻った。
「いかがでしたか、藤生竜昌殿は」
「ああ…お前のいったとおり、とんでもない美女だったな。最初は何かの冗談かと思ったよ」
「そうでしょう、そうでしょう」
「でも、残念ながら本物だな。あの身のこなし…」
信玄は、火箸で囲炉裏の墨をつつきながら、独り言のように喋った。
「あの手…あれは相当に鍛錬を重ねた、剣を持つ者の手だ」
笠を持ち上げようとした信玄の手首を掴んだ、竜昌の細い指の感触を、信玄は思い出していた。
「んまっ!信玄様ったらもう手を握ったんですかっ!(さすがは甲州の種馬…)」
佐助は、春日山でまことしやかに囁かれている、信玄のあだ名を思い出し、無表情のまま口、片手で押さえた。