第1章 プロローグ
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どのくらい歩いただろうか。
辺りはすっかり暗くなり、オレンジ色の街灯が柔らかく風に舞う桜の花びらを彩やかに照らしている。
私は適当なベンチに腰掛けて、家から持ってきた一升瓶を横に置いた。
こんないい酒、あんな男の口に入れてたまるか。
そんなささやかな反抗心だった。
「はぁ…帰りたくない…………。」
そう、ため息混じりに独り言をこぼしたとき背後に人の気配を感じた。
私を追いかけてきた彼だと思い振り返らずにいると、
「だいぶお疲れのようだね。」
彼のものではない男の声が聞こえ、振り返る。
するとそこには誰もいない。
不思議に思い視線を正面に戻すと、目の前に白い着流しを着た老人が立っていた。
「ヒッ…!」
驚いて思わず叫びそうになり、咄嗟に手で口を抑える。
「いやぁ、驚かせてすまない。ちょっと隣いいかな。」
そう言うと老人は返事も聞かず、私の隣へ腰掛けた。
「そう驚くな。こはる、私はお前に渡したいものがあって来たんだよ。」
「渡したいもの…?」
なぜ名前を知っているのか気になりつつも、どことなく懐かしさを感じるその雰囲気に、不思議と恐怖心は薄れていった。
老人は、袖口から淡い桜色をした数珠のようなものを取り出し、私の左手にはめた。
「その数珠はお前の願いをなんでも3つだけ叶えてくれる。自分の幸せのために、上手く使いなさい。」
そう言って老人は私の左手を優しく握った。
【なんでも3つだけ願いが叶う】だなんて、そんなことあるわけないと思いつつも、私は願い事を考えていた。
「私はどこにいても、お前の幸せを願っているよ。その数珠を額にあてながら、目を閉じて、心の中で強く願ってごらん。」
言われるまま、左手首を額にあて、目を閉じる。
「そうだ。それで良い。」
【誰も知らない遠い世界で、人生をやり直したい。】
そう、心の中で叫んだ。
目を開けると、一段と強い風が吹き、桜の花びらが渦をまくように舞い上がった。目の前にいた老人は桜の花びらにかき消されるように消えていった。少し寂しそうな優しい笑顔だった。
遠のく意識の中、ふと思い出した幼い頃の記憶。
『こはる…ああ、なんてお前は可愛いんだ。お前はおじいちゃんの宝物だよ。』
ああ、あれは物心つく前に亡くなった祖父だ。