第29章 夜が明けたら <明智光秀>
「あの、光秀さん」
「なんだ?」
馬上で、背後の光秀に声を掛ければ、面白がるような声色の返事が返ってくる。
「市に行くのに、馬に乗る必要があるんですか?」
「俺は、安土の市に行くとは一言も言っていないんだがな」
「…ええ!?」
桜の素っ頓狂な声に、光秀は喉の奥で笑う。二人が乗る馬は速度を上げて、瞬く間に安土から離れていく。
「どこに向かってるんですか!?」
「さあ、どこでしょう」
はぐらかすような光秀に、桜は口を閉ざした。光秀に教えてくれる気がないのなら、話し続けても舌を噛むだけだ。
「良いところへ連れて行ってやるから、そう拗ねるな」
「拗ねてません」
「そうか?」
光秀は、共に手綱を握る桜の手にぽんぽんと片手で触れる。宥めるような仕草にはむっとするけれど、感じる体温が嬉しくて頬が緩んでいくのを止められない。
「桜、出かけるぞ」
しばらく会えていなかった光秀が、唐突に桜の部屋へ来て開口一番に言った言葉が、これだった。どこに行くのか、と聞けば「市にも行く」と言ったのに。
二人で出かけられる事が嬉しくて、桜は何の疑問も持たずに、光秀に連れられるまま馬に乗り城を後にしたのだ。
温泉旅行を終えた後、二人は一応恋仲、ということになっていたけれど。光秀は相変わらず桜に意地悪という名のちょっかいを出して楽しむ他は、仕事に追われて城を開けたりすることも多く、なかなか二人で会う時間も取れない。
寂しい顔の桜を気遣ってか、光秀がいない間他の武将達が何かと話し相手になってくれたり、市へと連れだしてくれたりするものの、気が晴れることはなかった。
そんな中での、光秀からの誘い。嬉しくないわけがない。
どこに行くんだろう。
流れる景色を眺めながら考える。どうも、見覚えのある道のような気もするのだけれど、思い出せない。
まあ、いいや。
光秀の手は、桜の手を上から包んだままだ。大きな優しい手の温かさを感じていると、行先などどうでもよくなる。
光秀さんと一緒なら、どこでもいい。