第75章 俺に、思い出をくれないか
優しい曲調に、幅広い音色が乗る。豊かな響きが俺の脳を揺さぶった。
相変わらず、彼女のピアノは、生きてる粒の音がする。一音一音が、いちいち胸を鷲掴んでくる。
エリは曲の頭から終わりまでを、2回3回と通しで弾いた。俺は、楽譜に記された歌詞を目で追った。
彼女が奏でるメロディに、頭の中で歌詞を乗せる。
俺が完全に曲調を掴んだ頃、彼女も自分の中にこの曲を落とし込めたらしい。
手をパーに広げ、顔の前で合わせて瞳を閉じる。そして小さく息を吸った。
あぁ。これから、エリが歌う。
『 はじめて君が、笑顔くれた日を思い出す
それはまるで、昨日の事のよう
翼なしで飛べるかも
そんな……気持ちは…っ』
まだ1小節目の途中だったが、その歌声は嗚咽と変わる。
隣へ顔を向ける事はしなかった。
だって、彼女は泣き顔を見られるのは嫌いだと言っていたから。
歌いたくても、歌えないのだろう。
万理の、エリへの想いが溢れて。
エリの、万理への想いが溢れて。
『 ———っ、ぅ……、ごめ…っ』
その謝罪は、俺へ向けられたものなのか。それとも、ここに姿のない男へ向けたものなのか。それは分からない。
でも今、この瞬間に俺は思う。
「…エリが、ピアノの弾ける人間で良かった。
俺が、歌をうたえる人間で良かった」
『??』
「涙で声は出せなくても、ピアノの音は出せるだろう?
それに、俺はピアノは弾けないけど。歌なら代わりに歌ってあげられるから」